はじめに
楽曲音源を制作する際、必要になる工程の1つに「マスタリング」があります。TuneCore Japanに寄せられるアーティストの声の中でも「聞いたことはあるけど実際に何をするのかわからない」「そもそも本当に必要なものなのかがわからない」等、疑問の起こりやすい工程であるマスタリング。本記事ではそんな多くの疑問を解消できるよう、実際に現役マスタリングエンジニアとして活躍されているTakayuki Noami氏にインタビューを行い、マスタリングの正体を明らかにしていきました。
Takayuki Noami(野網隆行)
東京藝術大学在学中の2013年より音楽プロジェクト「Tia Rungray」として東京近辺を中心に活動を開始。同年、Non-REM Studioの前身「Non-REM Records」を立ち上げる。これまでに、大手CDショップ向け国内流通盤や海外配信向け音源の編集、プロデュースを行ってきた。2023年からはApple Digital Masters 認定マスタリングエンジニア。これまでにnikiie、yorihisa taura、天気輪などのアルバムマスタリングを手掛けている。
Webサイト:https://non-rem.com
SNS:https://x.com/noamitakayuki
マスタリングは製造工程における品質管理
ーー今回はよろしくお願いします。マスタリングについて、全くの素人から「ちょっとわかる」くらいの方々向けに、お話を聞いていきたいと思います。
はい、よろしくお願いします。大前提、アーティストごとだったりエンジニアごとに考え方や作業範囲が違うものではあるので、今回は「一般的には」と「私の考えでは」を交えながら語らせてもらえればと思います。
ーーまずは、そもそもマスタリングがなぜ必要なのか、どんな目的で行われる作業なのか、簡単に教えていただけますか?
前提として、音源をつくる工程を大別すると、以下の4つになるのが一般的かと思います。
- 作編曲
- レコーディング
- ミキシング
- マスタリング
アイデアを固めて、実際の演奏を収録し、収録された各楽器の音や歌をちょうど良いバランスに混ぜ合わせて1つの楽曲音源に仕上げていくのが、作編曲からミキシングまでの作業です。そうやって作られた音源に対して、最後に行われるのがマスタリング。これら工程をわかりやすく、工場で何か工業製品をつくるフローに置き換えると、以下の表のような形に当てはまると考えています。
ミキシングまででは基本的に、どのような印象の作品にするかといったクリエイティブな部分を徹底的に詰めていきます。一方、ミキシングまでで形作られた作品がどんな再生環境でも、あるいは狙った特定の再生環境で、想定した通りの印象に聞こえるよう調整を行う工程がマスタリングです。
例えばミキシングを行ったスタジオの高級なスピーカー環境ではベストなバランスに聞こえる音源でも、リスナーの多くが使用するイヤホンなどでは別のバランスで聞こえてしまうことが多々あります。大きなモニタースピーカーとイヤホンの中に入っている超小型のスピーカーとでは、表現できる音域や音量差が違うことなどが原因です。もちろんミキシングの段階からそういったことを想定して音を整える努力がなされることも多いですが、楽曲が再生環境によって意図しない印象に聞こえてしまわないよう、マスタリングは最後の砦として責任を持ちます。
また、マスタリングの重要な要素の1つに「音圧」があります。「音圧とは何か」を語ると長くなりすぎてしまうので、ここでは語弊を恐れず簡単に説明しますが、要は「楽曲全体を通しての音量感」。音量と音圧は違った概念なので、この “感” が重要です。自分の楽曲を他の楽曲と聴き比べたとき、音圧が小さすぎると「なんだか楽曲全体がショボい」と思われてしまったり、逆に大きすぎると「うるさすぎて驚く」など、本来意図していない印象が楽曲に加わってしまいます。よって、楽曲に適正な音圧を持たせることもマスタリングの重要な作業の1つです。基本的に音圧は、ミキシングされた音源から上げる処理が多いのですが、その際、多くの場合で意図しないノイズが乗ってしまいます。そうならないための下処理もマスタリング作業の範囲と言えるでしょう。
その他にもまだまだ調整を行わなければならない観点はありますが、ミキシングまでで制作された楽曲が、リスナーの再生環境下でも本来意図した通りの印象で聴けるよう調整する「品質管理」がマスタリングの一貫した目的だと、私は考えています。
ーー確かに、アイデアとしていくら素晴らしい製品でも、実際に使用するユーザーの環境下で同じように機能しなければ品質の良い製品とは言えませんね。
もちろんエンジニアによってはかなりクリエイティブな部分まで音を調整する方もいらっしゃいます。最終的にはアーティスト本人が自信を持って「良い音源だ」と言えるものをつくることが目的なので、ここに正解はありません。自分で行う場合でもエンジニアに依頼する場合でも、目的やこだわりに合わせて最適なマスタリングを考えることが重要です。
ーー「自信を持てる音源」のために、クリエイティブなものを付加するマスタリングが必要か、はたまたクリエイティブに作られたものを正確に伝えるマスタリングが必要か、選び抜くことが重要なんですね。ところで、ストリーミングやCD、レコードなど媒体の違いでマスタリングの作業に違いは出るのでしょうか?
大枠の「品質管理」という目的は変わらないと思いますが、CDの場合やレコードの場合のそれぞれで、特別に行う作業もあります。例えばCDの場合には、データをCDメディアにプレスする際、エラーを起こさないための「DDP」というデータの作成が必要なこともあります。これはアーティスト本人が自分でつくることも不可能ではないですが、おそらく迷う部分がたくさんあると思うので、詳しい人やプロに任せることをオススメします。
マスタリングの3ステップ
ーーマスタリングがどのような目的で行われるのかはわかりました。では、ストリーミング配信におけるマスタリングにはどのような手順や作業があるのでしょうか?
作業手順や工程には個人差があると思いますので、私にとって一般的な手順を紹介したいと思います。マスタリングは大きく分けると以下の3つの工程を踏みます。
- 音質・音圧の調整
- ディザリング
- Inter Sample Peakの最終チェック
ーーいくつか専門用語が出てきましたね。ひとつずつ順番に説明してもらっても良いでしょうか?
もちろんです。最初の「音質・音圧の調整」は読んで字の如くですが、ここでは音源の質感に対する最終的な調整を行います。音圧を上げるためには、コンプレッサーやリミッター、マキシマイザーと呼ばれる機材(プラグイン)を使用します。楽曲全体の中で音量の大きくなっている部分を潰し、潰した分だけ全体の音量を上げて楽曲全体の平均音量を底上げします。
なぜこのようなことを行うかと言うと、デジタル音源では音量の上限となる値が決まっているからです。上限以上の音量を出そうとするといわゆる音割れが起こり、音に意図しない歪みが乗ってしまいます。そこで、音量の大きいところを潰して大きいところと小さいところの差異を減らし、潰した分だけ全体の音量を上げる。そうすることで楽曲全体の平均音量が底上げでき、上限を超えないまま聴感上の音量感を上げられます。これが「音圧を上げる」の正体です。
ここまででおわかりの方もいるかもしれませんが、音圧を上げていくほど、音量の大きいところと小さいところの差異、すなわちダイナミックレンジが小さくなっていき、平坦な印象の音源になっていきますので注意が必要です。音圧とダイナミックレンジについては後ほど語りたいと思います。
さて、この音圧を上げる作業の際、ミキシング時に意図していたバランスが崩れることもあります。そのため事前に各帯域ごとのバランスをEQやマルチバンドコンプレッサーと呼ばれるプラグインで調整することが多いです。その他にも、楽曲全体にアナログレコードのような質感を加えたい場合にサチュレーターなどのプラグインを加えたり、音質に影響のあることはほとんどこの工程で行います。
また、EPやアルバムなど複数曲ある作品の場合、続けて聞いた時に意図しない違和感が発生しないよう各曲の調整もこの工程で行うことが多いですね。
ーー各プラグインの使い方まで聞きたいところですが、細かい作業は解説している動画等がたくさんあるのでそちらにお任せしましょう。続いて、あまり聞き慣れない言葉ですが、「ディザリング」とはどのような作業なのでしょう?
これは原理が難しいわりに作業自体はさほど難しいものではないので、簡単に説明します。デジタル音源は音をデジタルデータに変換した際やビットレートを下げたとき等にノイズが乗ってしまうケースがあります。原理は割愛しますが、ここで専用のノイズを加えておくことでこのノイズを防ぐことが可能なのです。これがディザリング。リミッタープラグインなどにディザリング機能が付いているケースも多いので、音圧を調整する工程で一緒に済ませてしまうことも多いでしょう。
ーーノイズを乗せないためにノイズを乗せる。おもしろい工程ですね。では、最後の「Inter Sample Peakの最終チェック」とはどのような作業でしょうか?
最後には必ずチェックするべきだと思うので工程の最後に置きましたが、実のところInter Sample Peak(インター・サンプル・ピーク)はマスタリングのほとんどの工程で都度チェックしていくべきです。
Inter Sample PeakはTrue Peak(トゥルー・ピーク)とも呼ばれ、先ほども説明した「音量の上限」のこと。音量の上限を超えると意図しない歪みが発生してしまうので、これを超えていないことを確認しながら全工程を進めましょう。
ちなみに、物理的な空気の振動である音がデジタルデータに変換される際、音は一瞬ずつで分割されて記録されます。実はこの分割された一瞬と一瞬のあいだで音量の上限を超えている箇所があっても、並みのメーターでは見落としてしまうケースがほとんどです。この並みのメーターが見落としてしまうような一瞬と一瞬のあいだも含んだ音量の上限をInter Sample Peak、もしくはTrue Peakと言います。並みのメーターで検知できない上限超えでも、残したままデジタルデータを ”実際の音” に戻したときには、歪みが生じてしまいます。マスタリングの過程ではInter Sample Peakまで検知できる専用のメーターを使用し、都度、気にしていきましょう。
さらにちなみにですが、この「Inter Sample Peak超え」は、mp3やAACといった圧縮音源を作成する際にも起こりがち。ストリーミングサービスでは多くの場合で音源が圧縮されていますので、それを加味してInter Sample Peakを上限から-1dBくらいの値まで下げておくのが安心でしょう。
ストリーミングサービスに最適なラウドネスとは?
ーーSpotifyやApple Music等には、特定の音圧(ラウドネス)を超えた楽曲の音量を自動で下げる機能があります。昨今、マスタリングでの音圧調整で「この基準を守るべきか否か」という議論をよく目にします。マスタリングエンジニアの目線から見て、この基準とどう向き合うべきと考えていますか?